ひとつの命のおしまいが教えてくれたこと。

先日、実家で飼ってた犬が亡くなりました。大きな耳が特徴で「ダンボ」のイメージから妹が名前を付けたんだっけな。「ダン」と名付けられて14年。大きな病気もなく、命を全うしました。



「ダンが午後4時半安らかに逝去。ダンに感謝。皆にも感謝。」というメールが父親から届いたのは、ダンの様子を見に行った翌日。当日のお昼には姉も行ってて、妹は泊まり込みで何度も行ってて。母親の腕の中で亡くなったそうです。初代愛犬(ジューン)のときも、家族全員が会いに行って、抱っこして、それからでした。「誰にも悔いを残させなかった最期は、ふたりとも同じだったね」なんて家族で話しました。(病院へ連れて行ったり、なんとかご飯を食べさせようと試行錯誤したり、心配で寝不足だった両親は本当に頑張ってくれたし、だからこそ喪失感が心配。)

愛しい「何か」はいつも単体ではなく「他の大切な何か」が紐づいているんだと、今回どこか冷静に感じていました。子供たちが巣立った後、子供のように可愛がっていた両親の姿や、実家に行くと嬉しそうにシッポを振って足元をクルクル走り回っていた姿、そして最期が近付いたとき家族で交わし合った言葉。「行けるときは行った方がいいよ」と同じように気にかけてくれたダンナさんにも感謝しています。思い出っていつも単体じゃなくて、つまり「ひとり」では作れなくて、現実的にも幻想的にも「自分」と「誰か」が絡み合っています。私たちはもしかしたら思い出をつくるために生きてるの?なんて思ったりして、もしもそうなら、悔いなき思い出を残すために、大切な人を悔いのないように大切にしなきゃなって、ダンの最期を通して感じました。心もチカラも器のデカい自分でいたいと強く思いました。


ダン、家族になってくれて、長生きしてくれてありがとう。

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